誰もいない満月の校舎。
そこで比奈が遭遇したのは巨大な醜いミミズのような生き物だった。
トイレを出ると、廊下はすっかり暗闇に包まれていた。
もう校舎には誰も残っていないだろう。誰もいない校舎というのは不気味なものだけど、比奈はすっかり慣れていた。
図書室でよく調べ物をしていると、日が暮れていることなんて良くあることだった。
本好きのおとなしい少女……それが大方の人が抱く、比奈の印象だった。瞳は大きく二重まぶたなのに他人の目を見て話すことができないし、そもそも普通に会話しようとしても顔が真っ赤になってしまってとても無理だ。
だけど本を読んでいるときは違う。
文字を追っているときの集中力は誰にも負けない自信があるし、この前だって地震があったことにさえも気付かなかったほどだ。
……おかげで、すっかり日が暮れてしまったのだけれど。
もう夜の八時を過ぎてしまった。
廊下を歩いている生徒はおろか、今校舎に残っているのは比奈くらいなものかもしれない。
「はぁ」
ため息をつきながら図書室の扉をくぐる。
比奈の身長の三倍くらいはあろうかという書架に囲まれた図書室は、図書室というよりも図書館といった方がしっくりくるかもしれない。
高校の学校図書館が大体五万冊程度だが、この聖寮高校の蔵書数はなんと百万冊を誇る。これは大型の大学図書館と引けを取らない蔵書数だ。
窓際に、本を読むためのスペースが取られているが、その机さえも幾重にも重なる書架に阻まれて見えない。
クジラの背中を模したかのような広大な机で、青白い月光に重厚な年輪が浮かび上がっている。その端っこに、本が出しっぱなしになっていた。
さっきまで、比奈が読書していた席。
開かれたままになっている本は、何の変哲も無い、最近流行りの女流作家のものだった。普通に読んでいれば何の変哲も無い……しかしどうしても濡れ場となるとそうもいかなかった。集中して読んでいるうちに知らぬ間に身体の芯が熱くなって溢れ出して来ていたらしい。
月明かりのなかでも分かる。椅子のクッションの部分に、お尻の形に染みが広がっていた。ふと文字が読みにくいな、と思って辺りを見回すと真っ暗になっていて、お尻に手を当てるとじっとりと湿っていたのだった。
そしてそそくさとトイレに向かい、先ほどの行為に及んでしまった……。
「はぁ……」
比奈は再びため息をつく。ため息が癖になってしまいそうだ。
椅子の足元に置きっぱなしになっている鞄を取り、本をしまう。既に貸し出ししたのだけど、気になってしまったので読み始めたのが間違いだった。
「もう帰ろう……」
どこからか秋にしては肌寒い風が吹きつけてきて、お尻まで濡れそぼっているショーツを冷やりと撫でていった。
図書室を出ると、廊下は青白い月光に満たされていた。
窓から夜空を見上げてみると、ぽっかり浮いている真ん丸い月にウサギが餅をついていた。そういえば今夜は十五夜だったっけ。
電気は一つもついていなかったけれど、十分に明るかった。窓枠の影さえもくっきりと映し出されているほどだ。
『秋風にたなびく雲の絶え間より 漏れいずる月の 影のさやけさ』
たしか百人一首の中にこんな歌があった。ずっと昔の人たちも、こんな風に月を眺めながら月を美しいと思っていたのだろうか……。
そんな思いを馳せながら、比奈はリノリウムの廊下を歩いてゆく。
秋だというのにまるで冬のようにシンと冷え切っていた。
息が、凍りつくように白い。ブレザーを着ているけれど、それでも震えがこみ上げてきそうなほどだ。
ぶるっ、
不意に身体が大きく震えた。
……やだ……おしっこ、したくなっちゃった……
一段ずつ階段を降りていく。しかし降りていくにしたがって辺りの気温が下がっているかのようだった。なにか、おかしい。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
言い知れぬ不気味さを感じ、比奈の息づかいが早くなる。吐き出された息ははっきりと白く残っている。
一階に着くころには、まるで真冬の夜のような気温になっていた。ブレザーと短めのスカートだけでは身に染みるような寒さだ。
我慢していた震えがこみ上げてきた。
早く校舎を出たかったけれど、どうしてもそれだと漏らしてしまいそうだった。仕方が無いけれど、トイレに寄ってから帰るしかなさそうだ。こんな時に、学校のトイレに入りたくないものだけれど……。
昇降口の近くにあるトイレのドアを押す。
ひやっ、
ドアの隙間から、寒気の塊のようなものが流れ出してきたような気がした。
左手は奥に向かって個室が並び、右側は流しになっていて大きな鏡が張られている。
向こう側の壁には窓があって、曇りガラスからは鈍い月光が射していた。
カチッ、カチッ、
電気をつけようにも、なぜかスイッチを入れてもつかなかった。月明かりでも充分なほど明るかったが、それが返って不気味さを際立てているかのようだった。
何度かスイッチを入れてみるも応答は無い。
仕方なく、月明かりの中を進んでいく。
「さ、寒い……」
カチカチと歯が震えてくる。それは寒さのせいだけでは無いはずだ。
この校舎には自分一人しかいない、
なにか遭っても逃げられない……
そんな漠然とした恐怖感が心の隅から広がりつつあった。
個室の手前五つは洋式……和式はその奥の個室にある。和式を使うには奥に行かなければならないのだが……そろそろと歩きだし、一つずつ個室の前を通り過ぎていく……一つ、二つ、三つ……。
ぴちゃん、
ぴちゃん、
ぴちゃん。
タイル張りの床には水が溜まっていて、歩を進めるごとに冷たい音が響く。
四つ目を通り過ぎたところで、比奈はほっとため息をつく。ここまでくれば後もう少しだ。出来るだけ個室の暗がりを見ないようにして、前を通り過ぎていく。
五つ目。
「えっ?」
反射的に、立ち止まってしまった。いま、個室の暗がりで、何かが蠢かなかっただろうか……?
見たくない。
見たくないと分かっていつつも、見なければいけない…………震える首を、個室に向ける……人……?
個室に落ちる青白い影は、暗がりに蠢くシルエットさえも覆い隠していた。それに加えて、比奈はかなり目が悪い。小説の文字さえもまともに見えないほどだ。
最初は、人が苦しんでいるのかと思った。
それならば無視できないし、助けも呼ばなくてはならない。
「……大丈夫、ですか……」
目を凝らして、影を覗き込む……。
「ひっ」
その瞬間、背筋に氷水を流されたかのような寒気に襲われた。
影の中から現れたそれは、トグロを巻いたヘビだったのだ。全長までははっきりと分からない……だがそれに巻きつかれたら水牛でさえも絞め殺されそうなほど太く、長い。
「あ、ああ……」
見なければ、良かった。図書室に寄らずに早く帰っていれば良かった。さっきおしっこも一緒にしておけば良かった。違うトイレに入っていればよかった……様々な後悔が一気にこみ上げてくる。
トグロの頭頂部が蠢き、こちらを睨みつけたような気がした。ヌラリとした体表、模様は……そこまで見ている余裕はなかった。
今にも漏らしそうだということも忘れて踵を返してドアを目指して走り出す。来るまでに時間が掛かったのが嘘のように、一息でドアまで走り抜ける。
そのドアを小さな身体をぶつけて開けて、廊下に走り出す……ドンッ!
あっけなくも比奈の身体は押し戻される。
ドンッ、ドンッ、ドンッ!
何度も体当たりしても開かない。
「えっ」
なんで、なんで開かないのっ?
恐怖に脅かされた思考で必死になって考える。鍵もついていないのに。
ドンッ、ドンッ、ドンッ!
それでも小さな身体をぶつける。駄目だ、開かない……!
ふと比奈は背後で冷気の動く気配を感じて、動きを止める。
ネチャ……ネチャ……個室から頭をもたげたもの……それはヘビというよりもミミズといったほうが近かったかもしれない。
月明かりに鈍く光る粘液質でぶよぶよとした体表、筋肉を伸縮させて前に進む様子……言ってみれば、それは比奈ほどの身長のある巨大なミミズだった。
それがゆっくりと個室から這い出してきているところだった。
「ひ、ひぃ!」
もう何がなんだか分からなくなった。あんなもの小説やマンガでしかみたことがなかった。ということはここは小説の世界? ゆっくりとこっちに這い寄ってくる、あれも小説を読んだ後に見る夢なの?
ぺたん、
腰が抜けて、尻餅をついてしまう。
氷のように冷たいタイルの感触で心臓が止まりそうになる。これは、夢ではない……。這い寄ってくるアレは、現実のものなのだ……。
寄生蟲4につづく。
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